2022年03月

2022/1/29(19)


少将のあまの咄や滋賀の雪  芭蕉
『芭蕉の風景』(下)p171 小澤實『ひととき2013・1』ウェッジ『新芭蕉俳句大成』明治書院p524
大津に弟子の智月を訪ねてこの一句。この「少将のあま」とは鎌倉初期の女性歌人、藻壁門院少将のことであるらしい。「雪の降る滋賀で藻壁門院少将の咄など智月さんとしたことだよ。」ほどの句意のようだが一読、あたりが優しい。「滋賀の雪」も明るく晴れやかである。その上にあなた様と「咄」をして楽しいひとときでしたねえ。と穏やかなさらなる師弟の交歓が偲ばれる。芭蕉死後の旅装束などもこの智月さんがお世話されたとのこと、なるほどである。

2022/1/22(18)


元日は田毎の日こそ恋しけれ  芭蕉
『芭蕉の風景』(上)p301小澤實 『ひととき2015・1』ウェッジ『新芭蕉俳句大成』明治書院p288
芭蕉はなぜ、「元日に」「田毎の日を」「恋しい」と言うのか。
本来は姥捨に見る棚田の田毎の月こそが素晴らしく美しい景なのであるが、元日に見るのは田毎の月ではなく田毎の日の出で、それは田毎の月にも増して誠に恋しい。という句立てなのだと思います。言い方を変えると西行は姥捨の山、棚田 田毎の月を恋しいと詠み、芭蕉は姥捨の月を元日の田毎の日として恋しいと詠んだ。つまり芭蕉は元日の姥捨の田毎の日を思いながら西行の気を激しく恋しく感じているのであると思います。

2022/1/15(17)


水苦く偃鼠が咽をうるほせり
『芭蕉の風景』(上)p69 小澤實 『ひととき2016・1』ウェッジ『新芭蕉俳句大成』明治書院p383
この句は一読で味わうには難しい。まず、「偃鼠」の本来の意味と荘子の喩え話を理解する必要がある。鷦鷯(みそさざい)は一枝を要するに過ぎず偃鼠(もぐら=どぶねずみ)が河に飲む水はたかだかその体程度のものである。人は分相応に。と言う教えである。
つまり、苦い水を偃鼠のように飲んで暮らす私であるなあ、と自分の境涯を詠嘆しているのである。

2022/1/8(16)


石山の石にたばしるあられ哉 芭蕉
『芭蕉の風景』(下)p219 小澤實 『ひととき2017・1』ウェッジ『新芭蕉俳句大成』明治書院p97
「たばしる」広辞苑にはタは接頭語で勢い激しく走り飛ぶ。ほとばしる。とある。この景を私は大津の石山ではないどこかで見ている、しかも一度や二度ではなく「あられ」と言えば思い出す景がある。雪ほど深刻な季節の重みではなく忙しない寒さ、むしろ軽さを感じるのだ。この句「石山の石に」と場所を特定する、そこに俳人芭蕉の習慣化した俳人としての「気」を感じる。さほど他の句などを意識しての句とは僕は思えない。『乾歳時記』に「特定の本歌を考える必要はない。」とする説もあるにはある。

2022/1/1(15)


から鮭も空也の痩も寒の内 芭蕉
『芭蕉の風景』(下)p210 小澤實 『ひととき2018・1』ウェッジ『新芭蕉俳句大成』明治書院p269
あけましておめでとうございます。
今年も行けるところまで小澤先生について行きたいと思っています。何卒よろしくお願いします。さてこの句、私たちは即六波羅蜜寺の空也聖人立像を連想するのではないでしょうか、寒の内という寒さは、雪や木枯、時雨などを想起させますがその内に空也の痩せとはよく言ったものであります。からからに乾いた「乾鮭」と「痩せた空也」「寒」の季節感と空也が救おうとした衆生の世俗的な苦しさの本質ががっちりとらえられています。その本質とは不幸から来る「寒さ」であります。
ギャラリー
  • 2012年(平成24年)  冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
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  • 2011年(平成22年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
  • 2011年(平成22年) 冬 大文字良第一句集『乾杯』より
  • 2010年(平成22年)  冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
  • 2021年(平成23年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
  • 2021年(平成23年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
  • 2021年(平成23年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より