石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり 富澤赤黄男
この句はいわゆる想像句である。「秋の鬼」と言うが、春夏秋冬に鬼がいるとでも言いたいのであろうか。そう、言いたいのだ。時は昭和16年の太平洋戦争さなかの句であるそうな。きっと、年がら年中鬼がいて戦火という火を焚いていたに違いない。今もこの鬼は僕たちの庭で火を焚き続けている。
昭和の時代に書かれたこの句は、偶然か必然かこの令和の時代における鬼さえも書き尽くしている。句の時間を超える普遍性、「名句の所以」である。
糸電話古人の秋につながりぬ
この糸電話は幼い頃、誰しも一度は手にして遊んだことがあるのではないだろうか。この言葉は、俳句の上五に据えると郷愁を誘う生活上の「物」となる。その郷愁とは幼い頃の友達やふるさとと言った懐かしい声に通じるものである。
この句さらにそれが古人の秋につながった、という。この場合の古人は故人ではないので身近な亡くなった人ではなく遠く尊敬する同門の著名な俳人ではないだろうかと思う。糸電話という懐かしい玩具から同じく懐かしい古人への思い出に繋がったところにはきっと懐かしい一句があるように思えてならない。この懐かしさを凝縮し得たところにこの句の名句たる所以があるのだと思う。