Ryo Daimonji Blog
闇汁の杓子を逃げしものや何 虚子
闇汁は何かで聞いたことがある、電気を消して鍋のものをわからなくして一度箸にかけた物は口に入れなければならない。ふんどしやカエルなどオエーとなるようなものを持ち寄り食べる遊びとか。もちろん肉野菜と言った美味しいものも入れるのだろう。この句杓子を逃げしものと言う、椀に運ばねば許されぬバンカラ書生の嬌声が時代のにおいを伝えて楽しい。
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闇汁の杓子を逃げしものや何 虚子
闇汁は何かで聞いたことがある、電気を消して鍋のものをわからなくして一度箸にかけた物は口に入れなければならない。ふんどしやカエルなどオエーとなるようなものを持ち寄り食べる遊びとか。もちろん肉野菜と言った美味しいものも入れるのだろう。この句杓子を逃げしものと言う、椀に運ばねば許されぬバンカラ書生の嬌声が時代のにおいを伝えて楽しい。
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せきをしてもひとり 尾崎放哉
京都府須知高校で口語自由律俳句サークル「みずぐるま」に入いっていたことがある。有季定型句も自由律俳句もよく知らぬまま俳句に親しんでいった。尾崎放哉はシンガー尾崎豊の少年性と通じるものを感じる。みずぐるまの先輩の「屋根雀この石投げればどこへ行く」を今も覚えている。
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比良みかみ雪指しわたせ鷺の橋 芭蕉
この句は、元禄三年(1690年)大津で乙州宅にて。初出は『翁草』里圃編(元禄8年・1695年刊)芭蕉一周忌追善集。
上五の比良みかみは比良山と三上山のことで、山を二つ続けることは珍しいということだ。鷺の橋は想像上の橋で、雪指しは雪で一旦切れ、雪よ比良三上山の方へ鷺の橋を渡しておくれ。と言った意味のようだが、私には分かったようでよくわからなかった。この句は上五から中七下五へと三段切れあるいはそれ以上に切れ、意味の繋がりが難しくなっているようだ。
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我を迎ふ舊山河雪を装へり 虚子
後書きに大正三年一月松山に帰省とある。故郷の山をありがたいと言ったのは石川啄木であるが虚子はこの句で故郷の山河が自分を雪で装って迎えてくれるとあたかも丁重に人に対するように詠んでいる。しかもただの山河でなく「舊」をつけ昔から変わらぬ故郷の山河を強調するのである。それは啄木に通じる深い感謝の気持ちの表れであろうと思う。
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しづかなるいちにちなりし障子かな 長谷川素逝
最近では障子はサッシに代わり一般ではあまり使われなくなっているのかもしれない。我が家ではそれなりに使っているがこの句のような落ち着きがあるかは疑問だ。つまりこれといった困りごともないがさりとてとりわけいいこともない一日が過ぎようとしている。障子、冬の季語である。