Ryo Daimonji Blog
老人のかたちになつて水洟かむ 八田木枯
老人が老人の形になって水洟をかむ場合と老人ではない人が老人の形にになってする場合がある。私はこの場合前者、すなわち老人が、の場合だと解する。自分が水洟をかんでいかにも老人として振る舞っているなあ、と詠嘆する方が自嘲的とはいえ自分の形を楽しんでいる余裕があるではないか。それに反して例えば若者であった場合、いかにも自分がじじ臭いと同じ自嘲であっても老に対する嫌悪が強くはないか。
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老人のかたちになつて水洟かむ 八田木枯
老人が老人の形になって水洟をかむ場合と老人ではない人が老人の形にになってする場合がある。私はこの場合前者、すなわち老人が、の場合だと解する。自分が水洟をかんでいかにも老人として振る舞っているなあ、と詠嘆する方が自嘲的とはいえ自分の形を楽しんでいる余裕があるではないか。それに反して例えば若者であった場合、いかにも自分がじじ臭いと同じ自嘲であっても老に対する嫌悪が強くはないか。
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作りなす庭をいさむるしぐれかな 芭蕉
庭を作っているという。そこには新たに土を入れあるいは、石、岩を置いたり花などの植物を置いたりしているかもしれない。そこへ時雨が来た、この時雨を擬人化して意図解釈する。すなわち、作庭の良くないところを改めるように忠告するつもり、あるいは作庭を励ますつもりに降る。私は普通に後者であると解した、ならばこそ感慨ある時雨と感じるのである。元禄4年(1691年)美濃の国、垂井本龍寺住寺玄譚への挨拶句とある。
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老衲火燵にあり立春の禽獣裏山に 虚子
老衲、年をとった僧の自称と辞書にあるが、虚子自身のことではないかと思う。寒を過ぎ火燵に入っているだけの自分なのだが、立春を迎えみなぎるものを覚える。裏山から生命力溢れる禽獣の音もする。この破調に作者の精神の高揚を感じる。