Ryo Daimonji Blog
三枚におろされている薄暑かな 橋 閒石
三枚おろしは、魚のさばき方の一種で、右身、左身、中骨の3つの部分に切り分けることをいうとされる。したがって「薄暑」がおろされるわけがないのである。つまりは感覚、思うに魚が手際よく三枚おろしに整えられると何やらすっきりとする。薄暑も三枚におろしすっきりしたい、との感覚比喩と解した。
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三枚におろされている薄暑かな 橋 閒石
三枚おろしは、魚のさばき方の一種で、右身、左身、中骨の3つの部分に切り分けることをいうとされる。したがって「薄暑」がおろされるわけがないのである。つまりは感覚、思うに魚が手際よく三枚おろしに整えられると何やらすっきりとする。薄暑も三枚におろしすっきりしたい、との感覚比喩と解した。
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岩躑躅染る涙やほとヽぎ朱 芭蕉
寛文六年(1666) 『続山井』。岩躑躅が朱色なのはほととぎすが喉から血を吐きながら泣き染めたのであらん。「ほととぎ しゅ」と洒落ているのだが、ほととぎすの涙の例えに少しあざとさを感じられたか。
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くずをれて団扇づかひの老尼かな 虚子
くずをれる、くずれるように座るさまを言うようだ。そう言った姿勢で団扇を使う老いた尼さんを詠嘆しているのだ。さぞかし上品な艶っぽい所作に見えたのだろう。
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葉桜の中の無数の空騒ぐ 篠原 梵
葉桜になった桜の葉の間から無数に木漏れ日が差している。それを「無数の空」と小から大へ空を表現したところがよかった。木漏れ日と空がブルーに結びついて爽やかに涼しい風を感じる。
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夕顔に見とるるや身もうかりひよん 芭蕉
「うかりひょん」は何かに魅了されてぼーっとなっているさまをいうらしい。夕顔の美しさにみとれてぼーっとなってしまったというのである。寛文七年(1667年)二十四歳の作。万治元(一六五九)年の「鉋屑集」(かんなくずしゅう・胤及編・万治二年刊)に、「俊之」という別人の句として、夕顔の花にこゝろやうかれひよんという酷似した作品が既にある。確かに近似するが上五中七の「夕顔の花にこゝろや」と「夕顔に見とるるや身も」とは、明らかに同じとは言えないと思うのだが。