Ryo Daimonji Blog
姉妹や麦藁籠にゆすらうめ 虚子
ユスラウメは、サクラの花が咲きだすころ、直径1cmほどの真っ赤な小さい果実をつけるとある。その名のやわらな美しさに何度も写真で確かめるのだが、実際に見た記憶がないのである。
華やかな桜に気を取られるのかもしれないが、この句の女きょうだいもゆすらうめの語感にぴったりだ。ここで麦藁籠を出すあたり、虚子さんならではである。姉妹をおととひと読むことも初めて知りました。
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姉妹や麦藁籠にゆすらうめ 虚子
ユスラウメは、サクラの花が咲きだすころ、直径1cmほどの真っ赤な小さい果実をつけるとある。その名のやわらな美しさに何度も写真で確かめるのだが、実際に見た記憶がないのである。
華やかな桜に気を取られるのかもしれないが、この句の女きょうだいもゆすらうめの語感にぴったりだ。ここで麦藁籠を出すあたり、虚子さんならではである。姉妹をおととひと読むことも初めて知りました。
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人殺ろす我かも知らず飛ぶ蛍 前田普羅
人間には拍子ということがついてまわる。誰しもどんな拍子で人を殺めるような運命が待ち受けているかわからない。流石に七十にリーチがかかった私にはそういう心配はほとんどなくはなったが、若い頃であれば、わからない。山岳俳句の名手と言われる氏である、純化された感覚がとらえたこの句にはそういった氷の刃のような鋭い危うさがある。
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命なりわづかの笠の下涼ミ 芭蕉
西行の歌にちなんでいるらしいのだが、炎暑下の旅にある身は、笠の下の小さな涼みのみ
が命のよりどころであります、ほどの意味であるようだ。延宝4年(1686)夏。33歳。芭蕉二度目の伊賀帰郷の小夜の中山での作。ここは西行にゆかりの歌枕であってみれば、芭蕉としては必ず一句詠まなくてはならないらしい。
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恋を得て蛍は草に沈みけり 鈴木真砂女
僕は、俳句は人となりだと思っている。つまりは生まれつきの人柄が俳句に個性となって宿るものだと思う。その他の性別や年齢、仕事、経済的な上下などは俳人の属性であると思う。それが、俳句にどう影響するかはそれぞれの運と思う。恋は真砂女にとって大いに幸運であったのではないか。
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雲を根に富士は杉なりの茂かな 芭蕉
頭を雲の上に出す富士山。その景は雲を根にして茂る杉のようだ、とする。雄大な富士を杉に見立てるとはいかなる杉をイメージしておられるのか、私には景が結べないのである。延宝四年(1676)『続連珠』とある。