Ryo Daimonji Blog
ふるひ居る小さき蜘蛛や立葵 虚子
立葵の花に夏を思う。茎の先まで咲き登ると梅雨が明けるのだと小さい頃から聞かされて来た。激しくひかり輝く夏の到来が待ち遠しく思えた若い頃が懐かしい。昭和五年八月『ホトトギス』虚子五十六歳、小さい蜘蛛が震えていると立葵を見る目も鋭い。
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ふるひ居る小さき蜘蛛や立葵 虚子
立葵の花に夏を思う。茎の先まで咲き登ると梅雨が明けるのだと小さい頃から聞かされて来た。激しくひかり輝く夏の到来が待ち遠しく思えた若い頃が懐かしい。昭和五年八月『ホトトギス』虚子五十六歳、小さい蜘蛛が震えていると立葵を見る目も鋭い。
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夢の如くがゝんぼ来たり膝がしら 岡本松濱
私は「如く」俳句と呼んで、俳句における直喩を警戒している。その例えがぴたりと決まれば気持ちのいい俳句になるのだけれど、少しでもぼけると台無しになってしまうからだ。
この句、ががんぼが自分の膝頭に来たことを「夢のように」と喩えられた。ががんぼは存在自体が毒にも薬にもならぬ不確かな虫である。しかし夢の如くと言うほどに儚くはない、と僕は思う。
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五月雨や竜灯揚る番太郎 芭蕉
江戸時代には町村に召し抱えられて火の番や盗人の番に当たった者がいて、番太郎と呼んだようだ。その番太郎が五月雨の中竜灯を揚げた風情を詠んでいる。現代にしてみると雇われたガードマンが投光器であたりを照らしている景ということになろうか。
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病身をもてあつかひつ門涼み 虚子
難しい、病身で扱いつつ門涼みをしていると言うが何をあつかつていると言うのか。病身を頼りなく慎重に扱いながら門まではなんとか出て涼んでいる、と一応の解釈とします。
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ふとわれの死骸に蛆のたかる見ゆ 野見山朱鳥
自分の死後を考えることって、それこそ「ふと」ほどにはある。しかし、死骸となると想像できない。そもそも自分の身体をそれほど別物として見たこともないし己の頭が薄くなっていることを家族に言われてあわてているほどだ。そりゃあ死ねば腐りもすれば蛆もわくだろうが、そういう稀な自意識を俳句にする人でありましたか。