Ryo Daimonji Blog
打ち終り柱時計の去年今年 齋藤三規
この季語を私は去り行く年と来る今年の流れを詠嘆を込めて言っているものと解し、気に入ってもいた。ところが午前0時を境に去年と今年が変わる境目を、行く年の時間の流れの早さを感慨を込めて思う季語であるそうな。
それを知ってからいささかこの季語を使いにくくなったのだが、自分は自分の解釈でもいいのではなかろうか。
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打ち終り柱時計の去年今年 齋藤三規
この季語を私は去り行く年と来る今年の流れを詠嘆を込めて言っているものと解し、気に入ってもいた。ところが午前0時を境に去年と今年が変わる境目を、行く年の時間の流れの早さを感慨を込めて思う季語であるそうな。
それを知ってからいささかこの季語を使いにくくなったのだが、自分は自分の解釈でもいいのではなかろうか。
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鰒釣らん李陵七里の浪の雪 芭蕉
この句は李陵という人物に関する予備知識が必要である。後漢の時代の高等遊民でのちの帝とさえ対等に遊ぶ、変人であったようだ。その李陵は七里灘で釣りをしたというが、私は、雪の渡しで、鰒を釣ろう、との句意。あそび来ぬフク釣りかねて七里迄(貞享元年)の初案の句。
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巫女舞をすかせ給ひて神の春 虚子
巫女さんが神殿で舞を奉納する時にその衣が美しく透けている、そのことを詠んでいるものと解した。次に神の春と随分大仰な季語の仕立てである。新年のお祭りを言祝いでのことと受け止める。
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鏡餅岩に乗せあり貴船道 五十嵐播水
貴船神社は命の神様と言われ、京の尊い神社の中でもなにやら強烈なパワースポットである。その参道に鏡餅が供えある。そのひとつひとつが、さりげなくあるのだ。日本の神々のありがたさはそのさりげなさの内にこそある。
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あそび来ぬ豚釣りかねて七里まで 芭蕉
天和四年(貞享元年/一六八四)の作。豚釣にあそびに来て釣れぬまま七里まで来てしまった。『万葉集』巻九・一七四〇の「水江の浦島の子が、堅魚釣り鯛釣りかねて、七日まで家にも来ずて」。凝りに凝った、念入りな本歌取りであった。
東海道の宮宿と桑名宿の間、伊勢湾を渡る「七里の渡し」を詠む貴重な句とある。(「芭蕉の風景〈上〉小澤實 ウエッジ)。