Ryo Daimonji Blog
樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉
難しい句である。まづ場所は京都市鳴滝とある(「芭蕉全句」小学館)。次に「かまはぬ」かかわるとの意味に従う、つまり桜の花にかかわらない、枝ぶりである。先の林和靖に例えた山荘主を樫の木に類えている、らしい。貞享二(一六八五)年『野ざらし紀行』「梅白しの句と並べて掲出『新芭蕉俳句大成 明治書院』。
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樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉
難しい句である。まづ場所は京都市鳴滝とある(「芭蕉全句」小学館)。次に「かまはぬ」かかわるとの意味に従う、つまり桜の花にかかわらない、枝ぶりである。先の林和靖に例えた山荘主を樫の木に類えている、らしい。貞享二(一六八五)年『野ざらし紀行』「梅白しの句と並べて掲出『新芭蕉俳句大成 明治書院』。
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月の夜に笠きて出たり鉢叩 虚子
この場合の笠は、被りもんを意味するんだろう。月の夜なんで雨避けではなく帽子みたいなファッションなのであろう。鉢叩なる季語では、十一月初旬から大晦日までの寒い夜である。空也念仏が聞こえてきそうな年末の通りへ虚子翁がお出かけである。
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下燃えぬ人間それに従ひぬ 星野立子
季語「下燃」は、早春、大地から草の芽が萌え出ること、またはその芽をいうとある。また、古来ひそかに思い焦がれる意味に使われた言葉であるとも歳時記にあった。
つまりはそういう早春の季節のうごめきに人間は従って生きている。もちろん私だって、と人間存在のサガと言った部分にまで踏み込んでみせる。
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梅白し昨日ふや鶴を盗まれし 芭蕉
貞享二(1685)年春の作。「京にのぼりて三井秋風が鳴滝の山家をとふ」と前書。
広大な別荘にすむ秋風へ、秋風を林和靖になぞらえての挨拶句。つまり「宗の高士、林和靖は西湖の孤山に住み、ただ梅と鶴を愛した」秋風の別荘には梅は美しく咲いているが鶴がいない、昨日のうちに盗まれてしまったものか。と興じたのである(新芭蕉俳句大成 明治書院)。
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餅もすき酒もすきなりけさの春 虚子
餅に酒。いずれも好きと改めて言う。何やらめでたくあるのは、新年のことほぎだからなのだろう。「けさの春」「今朝の春」で歳時記に新年の季語とある。なるほどである。