Ryo Daimonji Blog
蝸牛葉裏に雨の三日ほど 虚子
三日ほど雨の続く日である、葉裏に蝸牛が居ると蝸牛に雨がちな初夏を代弁させている。その上この蝸牛もまだ小さいのであろう、葉裏にいると遠慮気味に出すあたり、虚子先生のさすがと言える渋さである。反面今日的には少しかっこよすぎとも言える。
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蝸牛葉裏に雨の三日ほど 虚子
三日ほど雨の続く日である、葉裏に蝸牛が居ると蝸牛に雨がちな初夏を代弁させている。その上この蝸牛もまだ小さいのであろう、葉裏にいると遠慮気味に出すあたり、虚子先生のさすがと言える渋さである。反面今日的には少しかっこよすぎとも言える。
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腹這へば乳房あふれてあたたかし 土肥あき子
あき子氏は昭和三十八年静岡県生まれとある。女性にとって乳房は年代にもよるだろうが、結構なテーマであろうと思う。あふれてあたたかい、とは多くの同性の羨望ともなろう。その響きに自己への肯定感がいやみなくあって、その健康さはきっと氏の個性をなす大きな要素であろうと思う。
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船足も休む時あり浜の桃 芭蕉
歳時記に梅の花が終わってまだ桜には早い頃の花。とあるが、私は近くで桃の花をしっかりと見るということがない。梅が咲いたと思うとすぐに桜が満開となる。そして早くも葉桜である。
貞享ニ(1685)年作。東海道の宿駅鳴海宿付近の海浜、鳴海潟を見はるかしていると、浜辺の桃の花が咲き、遠く沖合の方をゆく船は動きを止めているかのように見えるよ、の意味(明治書院新芭蕉俳句大成)。
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爐塞いで此夕ぐれをいかん僧 虚子
爐塞、ようやく寒さも遠のいてきたので、冬のうち親しんできた囲炉裏や茶炉を塞ぐのであるが火がないと何やら広々とするこの夕ぐれが、手持ち無沙汰である、と嘆く僧であった。この「僧」自分のことと読んだが、他を知らない。
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涅槃図にまやぶにんとぞ読まれける 後藤夜半
この句の核は「まやぶにん」。涅槃図に毛筆でそう書いてあるものがあるようだ。「まやぶにん」は「摩耶夫人」である。釈迦の母であって、産後七日目で亡くなってしまわれたとか(『名句の所以』著 小澤實)。文字が刻まれた涅槃図が詠まれた訳だ。一体どれだけの種類の涅槃図があるのだろう。