Ryo Daimonji Blog
命二ツの中に生たる桜哉 芭蕉
貞享ニ(1685)年の作『野ざらし紀行』。
前書きに「水口にてニ十年を経て故人に逢ふ」とある。「命二ツ」とは芭蕉と土芳のことである。その再会の感激を水口の桜に託しているのだ。この時代に二十年を超えて逢うということは西行の歌う「命」とも重なり、儚く美しい桜の命とも重なっていると思われる。
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命二ツの中に生たる桜哉 芭蕉
貞享ニ(1685)年の作『野ざらし紀行』。
前書きに「水口にてニ十年を経て故人に逢ふ」とある。「命二ツ」とは芭蕉と土芳のことである。その再会の感激を水口の桜に託しているのだ。この時代に二十年を超えて逢うということは西行の歌う「命」とも重なり、儚く美しい桜の命とも重なっていると思われる。
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夕暮の汐干淋しやうつせ貝 虚子
明治27年3月20日「小日本」とある。この頃虚子は碧梧桐と行動を共にしていたようだ。虚子二十歳の作品である。夕暮のしおひ狩り(と解する)に空の貝があつた淋しいことだと、虚子若き日のノスタルジーと読んだ。
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はりつけにあらず寝釈迦は寝給へり 及川貞
キリスト教の尊師キリストは磔で死んだ、多方仏教の尊師釈迦は寝るように死んだ。いずれがという評価を言っているのではない、その違いを俳句に詠んだのだ。そしてその穏やかな寝姿にお釈迦さまへの敬愛の念が染み出ているように、私は感じる。
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菜畠に花見皃なる雀哉 芭蕉
菜の花畑で、人が花見をしているような顔で飛び回っている雀だよ、ほどの意味であろうか。菜の花の美しさ、可愛さを俳句にするのは意外と難しい。その上に鳥類の中でも可愛い雀を擬人化で付け加えるのも可愛さのつきすぎの感が強い。『野ざらし紀行』でいったん書き加えられながらも最終的に削除されたとあるが、私はそういうことではないかと想像する。貞享ニ(1685)年『野ざらし紀行』吟行句であった。
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行春や心もとなき京便 虚子
この句の中七「こころもとな・し」は①待ち遠しくて心がいらいらしている。が一番ピッタリくる。下五、京からの便りと、もじどおり読む。しかし誰からの、どういう便りなのかさっぱりわからない、京からのということでその味わいが深く出る。その辺りがこの句の妙ということか。