Ryo Daimonji Blog
冬麗の微塵となりて去らんとす 相馬遷子
よく晴れた暖かい穏やかな日に、極めて小さい塵となって逝こうとしていると、辞世の句であるようだ。自分の身体は微塵となって消えてゆくのだが魂は暖かい穏やかな空気に包まれ、高みへと去ってゆく。作者の状況はわからないが、願いを込めて死への覚悟が詠まれている。
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冬麗の微塵となりて去らんとす 相馬遷子
よく晴れた暖かい穏やかな日に、極めて小さい塵となって逝こうとしていると、辞世の句であるようだ。自分の身体は微塵となって消えてゆくのだが魂は暖かい穏やかな空気に包まれ、高みへと去ってゆく。作者の状況はわからないが、願いを込めて死への覚悟が詠まれている。
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埋火もきゆやなみだの烹る音 芭蕉
こぼす涙で埋火(うづみび)火鉢の炭火、も消えることだ。その涙の烹る(にゆる)音、炭火に涙が煮える音。炭火にあたりながら亡き人を偲んでいる。曠野(笈日記・伯船集・蕉翁句集)前書「ある人の追善に」とある。ある人とは岐阜の蕉門、落梧のことらしい。小学館(松尾芭蕉集①全発句)
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南縁に湯婆をあける日午なり 虚子
ジブリ映画でユバアバと思い込んでしまっているが、この場合たんぽと読み冬の季語であった。日午はにちごと読み正午のことらしい。つまり家の南側のえんに正午どきに湯たんぽの湯を捨てたというほどの意味のようだ。具体的に時、場所を示し、湯たんぽに季節を存分に語らせる、これもまた客観写生の一場面と言えると思う。
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日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ 寺田京子
解説には上五「日の鷹」を「日を背負って飛んでいる鷹」とあるが、私には少し強引な表現に感じられた。ともあれ、この句は鷹の雄々しさ美しさを言おうとしていることはよくわかる。その表現として骨片となるまで、とそのスピードと彼の消耗をいう。ただの骨になるまでではなく「骨片」、骨のかけらとなるまで身を削ぐ、そんな気配に収斂してみせているのだ。
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被き伏す蒲団や寒き夜やすごき 芭蕉
かづ
愛妻を喪い、悲嘆の中でかぶって寝る蒲団はどんなにか寒く冷たいことであろう、と門下を思い慰めようとした追悼吟である。前書き「李下が妻の悼」がなければとてもこのような解釈はできない。上五中七の「や」は切れ字で、下五の「や」は強調の助詞と解する。蒲団、寒きと季語が重なるが、その季題を思えば気になることもない。