Ryo Daimonji Blog
さしかゆる佛の花に晝蚊かな 高浜虚子
佛の花は禅宗では樒であるが、この花はいかがであろうか。そこに蚊がいたという。仏間に飛び込んだ蝶を今は亡き身内と思い、祈りを深くしたという話を聞いた覚えがあるが、まさか、蚊に思いをやる人もあるまい。ただ仏壇の静かな広がりを思うのみである。「かな」の力を感じる。
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さしかゆる佛の花に晝蚊かな 高浜虚子
佛の花は禅宗では樒であるが、この花はいかがであろうか。そこに蚊がいたという。仏間に飛び込んだ蝶を今は亡き身内と思い、祈りを深くしたという話を聞いた覚えがあるが、まさか、蚊に思いをやる人もあるまい。ただ仏壇の静かな広がりを思うのみである。「かな」の力を感じる。
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池の底あるくゐもりや百済寺 小澤實
池の底をあるく生きものは、簡単ではない。たにし、どじょうと考えてみるが歩く、といえばやはりいもりが一番に思える。こういうありそうでない類想類句のことを原類句というのが相応しいと思う。しかもこの句、下五に百済寺と場所を示す。聖徳太子を縁起に持つ近江に現在する古刹であった。
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京にても京なつかしやほとゝぎす 松尾芭蕉
曼珠沙華抱くほどとれど母恋し 中村汀女の句を連想してしまう。郷愁を誘う母のイメージと現実の母とは全く違うということがある。郷愁を誘う京のイメージと現実の京とは全く違うということがあるのと、感覚ギャップという意味でよく似ていると思うのです。いやあそんなことはない。という人とはどこまで行ってもこの感覚ギャップは分かり合えない、こともある。
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古家にもの新らしき団扇かな 高浜虚子
俳句は物に即して詠まないと感覚が実を結ばない。下五のかなは上五へと循環するように置く。古びた家に団扇の新しさが己が存在を妙にくっきりと示している。つかの間目を止めた瞬間の感覚である。この句、私はアニミズム俳句だと思う。